江美城

別名− 付近住所 鳥取県日野郡江府町江尾 現在−
2003/8/10 案内板・模擬天守アリ 日本城郭大系


蜂塚氏 城・本丸・二の丸・西の丸・東櫓・八幡丸・人枡・西門坂・馬場・抜ヶ穴・水穴・犬走り・乾堀

伯耆国江美城は蜂塚氏初代の城主 安房守によって開創され文明16年(1484)と伝えている。江美城は自来、二代 三河守 三代 丹波守 四代 右衛門尉と80有余年にわたってつづく動乱の時勢に処し、堅固な要害と有力な武力を保有し殊に城下領民を育て、鉄山と開田の技術を家業とする和戦兼備の特色ある蜂塚氏一門の居城であった。尼子・毛利の攻防つづく中で毛利の軍議は江美城 蜂塚氏一門の鉄の技術集団攻略を先発するに決し毛利の副将 吉川元春は軍勢三千に鉄砲隊を差し向けその采配を杉原盛重に命じた。この日あるをかねて覚悟の城主 蜂塚右衛門尉はこの大軍をむかえ討ち、奮戦敢斗死力をつくすも衆寡敵せず、遂に自ら城閣炎上を命じ割腹して城と運命をともにしたのであった。城主の壮烈な自刃のさまを見て家臣郎党ことごとく城主の後を追い、江美城はここに落城したのであった。時に永禄8年(156586日、朝まだき刻であった。江美城主 右衛門尉は、尼子の悲運にあると見て「弱キヲ捨テ、強キニ附カンコト、禽獣ノ心トヤ云ウベシ」と断じ、吾れと吾が一門の安泰をかなぐり捨て、武人の友情と節に殉じた稀代の武将であった。里人たちはこの哀しき宿命に果てた城主や家臣の霊を弔い、又、江美城中で催されて来た盆の十七夜踊りの思い出を秘めてくる年もくる年も踊り伝えて400年の歳月は流れた。哀しくもゆかしい物語りが今も尚、江尾十七夜として続いている。この踊りは無形文化財として指定をうけ伝承されている。